さて「馬鹿息子」はなぜ馬鹿なのでしょう。言われた通りに行動する素直な息子なのに、どうして笑われてしまうのでしょう。それは自分で考えることをしないからです。時と場所を考えないからです。「場」が読めないからです。要求されていることがわかっていないからです。この場合の「馬鹿」というのは「相手の伝えようとしていることを推察できない人」ということになるでしょうか。一人前の大人は、数少ない言葉からでも、相手の伝えたいことを推察しなくてはいけないのです。推察できないのは「馬鹿」なのです。私は馬鹿息子の話を聞きながら、げらげら笑い、なんて馬鹿な息子なのだろう、私はこんなことしないもんね、と高見の見物気分で聞いてきました。でも本当に高見の見物ができる立場でしょうか。私たちに馬鹿息子を笑う資格があるのでしょうか。 今世間様に笑われることを恥と思わない人が増えてきました。それなら「世間」という枠を超えて、自由に自分らしい生き方をしているかと言えば、そうでもありません。世間という枠をはずした代わりに、テレビが作り出してくれる、権威という枠や流行という枠に自分をはめこみます。自分で考えないという意味では馬鹿息子と全く同じです。いえ「世間様」という枠は私たちのためにありましたけれど、テレビが作り出す枠は企業や為政者のためのものですから、もっと馬鹿です。
ところで馬鹿息子話を聞いて「馬鹿息子も馬鹿だけど、お父さんも悪いよ、だって言い方が親切じゃないもん」と言った子がいました。確かに、カラスのいる所まで耕せと言われて、飛んでいくカラスを追いかけて耕していく息子も息子ですが、「カラスのいる所」などという不安定な場所を示した父親も現代風に考えれば、説明不足で責められるかもしれません。でも昔話ではカラスのいる所までと言った父親は責めません。言われたことを考えなしに実行した息子が笑われるのです。「1を言ったら10を知れ」というのが昔の教えでした。「水」と言われたら、言われた方が判断しろというのです。筆を持っている人に「水」と言われたら硯に入れるだけの水でいいし、暑い外から帰ってきた人に「水」と言われたら飲む水を、植木鉢のそばにいる人に「水」と言われたらじょうろにいれて、たき火をしている人に言われたらバケにいれて持っていく、それが気の利いた人間のすることでした。相手の言いたいことを察して相手の要求に的確に応えよ、というのが昔流の教えで、それができないのは「馬鹿」だったのです。1から10まで言わないとわからない奴は馬鹿といわれても仕方がなかったのです。 私が初めての子を入学させたとき、先輩のお母さんが教えてくれました。先生に「お宅のお子さんは元気ですねぇ」って言われたら、それは乱暴っていうことかもしれないし、落ち着きがないっていうことかもしれないよ、「お宅のお子さんはおとなしいですねぇ」って言われたら、それは愚図だっていうことかもしれないし、意欲がないっていうことかもしれないよ、と。確かにそういう気持ちで先生の話を伺っていると、先生がおっしゃる言葉と言葉の間のことも想像できるのです。小説を読んでいても私たちは行間からいろいろなことを読みとっています。話していても相手の言葉と言葉の間を想像することで、本当に相手が私に伝えたいことは何だろうと考えることができます。そして日本には以心伝心という言葉がありました。今はどちらかと言うと「水」と言ったほうが責められます。飲む水か植木にやる水か、きちんと言わなきゃわからないでしょ、という考え方です。
ところで「馬鹿」(関西ではアホでしょうか)という言葉ですけれど、表向きの教育界から「馬鹿」という言葉が消えて久しいことです。私も幼稚園や保育園では「馬鹿」という言葉は使わないほうがいいと思っていました。けれどきれいごとだけで済ませようとする教育の世界に、もっと本音をもちこんだほうがいいのかなと思えてきたのです。「馬鹿」という言葉に対してもっと免疫をつけておくことも大事ではないでしょうか。子ども同士で「バカ!」「バカっていうやつバカバカさ!」「そういうお前はバカバカバカ!」とやりあったり、モーツアルトのアイネクライネナハトムジークの曲にのせて「バーカカーバドジマヌケ」「マーヌケはお前だべ」「そういうお前はバカだーバカだ」「お前こそがバカだーバカだ」とやりあう、その雰囲気をなくしてはいけないと思うようになったのです。 馬鹿話の主人公を反面教師にしながら、人と人が上手にかかわっていくための知恵や技術を学んでいきましょう。