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ゆかりちゃんとゴンタとゲルタ 野原嘉一郎編

ゆかりちゃんとゴンタとゲルタ 野原嘉一郎編
野原嘉一郎・文 有原誠治・絵
1300円+税
ISBN978-4-87077-198-7 C8793
品切れ

著者・野原嘉一郎の実話が絵本に
わずか6歳で、肺芽腫のために、この世を去った愛孫娘・ゆかりちゃん。
ゆかりちゃんと、仲良しの猫・ゴンタ、犬・ゲルダのお話に、アニメ作家の有原誠治が作画。有原誠治は、宮崎駿や高畑勲とともにアニメを作ってきた(現在虫プロ所属)。かわいくも、切ない絵が、今にも動き出しそうに読者に迫ってくる。

総ルビで、子どもが自分で読める。
ゆかりちゃんの「学校に行きたい!」という切ない願いは・・・。子どもたちに、生きる意味、学校に通う意味を考えさせる。漢字にはすべて振り仮名がついているので、子どもが自分で読める。

ご感想


野原嘉一郎 (のはら・かいちろう)
1924年埼玉県生まれ。横須賀海軍工廠造船部・国鉄大宮機関区・東宝商事映画部を経て、共同映画株式会社社長として23年、数多くの映画を製作。
1992年映画人墓碑の会創立時から理事長、日本映画製作者協会相談役、日本映画復興会議代表委員(現在は退任)など歴任。

[主な製作映画作品]
  『ガラスのうさぎ』『春駒のうた』『太陽の子』
  『アリサ~ヒトから人間への記録』
有原誠治 (ありはら・せいじ)
1948年秋田県生まれ。虫プロダクション(株)で、アニメーション映画監督として活躍。
[主な映画作品]
・短編アニメーション
 『つるにのって』『鬼がら』
 『越後の昔話 あったてんがのぉ』、
・長編アニメーション
 『火の雨がふる』『うしろの正面だあれ』
 『ライヤンツーリーのうた』『えっちゃんのせんそう』
 『NAGASAKI1945 アンゼラスの鐘』
[主な著書]
 『アニメーターからの手紙 子どもたちに夢と平和を 』(新日本出版社)、
  『ジャン・リュルサ 世界の歌』(文溪堂)など。』

ご感想が寄せられています。


・ 私にも小児がんを経験した子どもがいます。野原さんの悲しみが伝わってきました。
  (千葉県・会社員・44歳)

・ 世の中には「がんばっている人」って沢山います。でも生きるために「命をかけてがんばっている人」ってどんな人か・・・なんて、想像する人はあまりいない。しかもそれが幼い子どもだなんて・・・。以前ゆかりちゃんが入院していた病院に行ったことがあります。ちょうど7月で、七夕かざりがしてありました。笹の葉にかかっていたたんざくに、小学校の低学年くらいの子の字で、“自分が長生きできますように”と書いてあり、とてもつらかったです。世の中にはいろんな人がいることを知ってほしいです。知ってもらえる本です。
(40歳)

・ ゆかりちゃんのお母さんは、理性的な人でしたから、野原さんの書かれたすばらしい感動の本が生まれました。とくにゴンタとゲルタの登場は感動です。私も皆さんにおすすめします。ほんとうによい本です。
(埼玉県・90歳)

・ 主人公と同じ歳の女の子がおります。読み聞かせましたら、可哀そうと、周りの人の優しさが分かったようです。大人から見て、お互いの立場を(犬と猫を通して)理解して成長して行くことを会得してくれたのではと思います。
(埼玉県・主婦・69歳)

ご感想
>> このほかにまだまだたくさんの寄せられています。さらに詳しくこちら
埼玉県の小学校4年生・夏穂さんが、『ゆかりちゃんとゴンタとゲルダ』の読書感想文を書いてくださいました。

1999年7月1日午後2時16分、孫娘『結香里(ユカリ)』は6歳1ヶ月の生涯を閉じました。
ゴンタは5ヶ月前の2月に、ゲルダも次の年の5月に逝ってしまいました。
結香里は、素麺やみたらし団子、ピカチュウにドラえもんが大好きで、「あいうえ おはよう」や「いぬの おまわりさん」を口ずさみ、絵本を読むことと、迷路パズルがお気に入りでした。
小学校教師をしていた、私どもの長女 民子のところに初孫娘・結香里が誕生したのは、1993年5月17日でした。可愛くて、可愛くて「目に入れても痛くない」とは、まさにこのことかと思いました。家内と一緒に、保育園の発表会・運動会などに必ず参加しました。

 ところが1996年1月23日、「CT・超音波検査の結果、悪性と診断され、埼玉県立小児医療センターに即日入院となった」という民子からの電話なのです。驚天動地とはこのことです。結香里2歳8ヶ月でした。
それから、厳しく長い闘病の始まりとなったのです。完全看護の小児医療センターでは、付き添いができません。民子は、面会という名目で、学校の勤務が終わってから、消灯時間までゆかりのそばにいて自宅へ帰る、民子が都合の悪い時間には、私ども夫婦が病院に行く、という毎日です。消灯時間に帰ろうとすると「帰らないでね」と、ゆかりが泣くのです。

 最初の手術(肺芽腫摘出・右肺中葉切除)の後、面会に行った私に「おじいちゃん、ユカリはがんばったよ。だから、すぐ良くなるよね。退院できるよね」と、けなげに話しかけるのです。私も結核で「右肺上葉切除」「整形骨切り取り3本」と2回も手術を受けていたので身につまされる思いでした。

 手術後は化学療法です。たちまち頭髪が無くなってしまいます。ここには、他にもガンの子どもがたくさん入院していて、頭髪がある子どものほうが少ないのです。この子たちが、本を読んだり、オモチャで遊んだり、時には駆け回っているのです。無心に遊ぶ子どもたちを、病から救うことのできない小児医療の現実に、怒りにも似た悔しさを感じました。

 入院半年後の7月31日、経過観察のために退院。1997年11月13日再発。小児医療センター入院、放射線治療・骨髄移植・化学療法と辛い療養生活が始まったのです。4歳5ヶ月の時でした。1999年1月4日結香里5歳7ヶ月、担当医から「治療法がない。入院しているよりは、今の時間を大切にしたほうがいいのではないか」と、最後通告を受けたのです。

 -現実として受け入れられないけれど、長年、小児ガン患者を診ている医師が言うのだから、と覚悟して、それから、夢中で結香里との思い出をたくさん作ろうと思った。―と、後で民子から聞かされました。

 民子は、これを機に、天性の仕事と選んだ教師を退職する決断をしました。「教員は代わる人がいるが、結香里の母親は私しかいない」との思いからでした。

民子が「一番行きたいところはどこ?」と聞くと、結香里は「学校」と答えたそうです。学校の先生をしているお母さんが自慢であり、学校は結香里の憧れの場所だったのでしょう。民子は校長にお願いして、自分の授業を1時間だけ見学させる事ができました。

 私どもにとって、特に強い思い出は、6歳の誕生祝いを私宅でしてやれたことです。当時は痛みのコントロールが難しくなり、呼吸の苦しさが我慢できず、最期を思わせる日々でした。結香里が、「おばあちゃんの家に行きたい」と言い出したそうです。私宅は浦和で、結香里が住む鶴ヶ島から、車で1時間30分もかかるのです。苦しげではあったけれど、誕生祝の席に頑張って座っていた姿は、今でも目に焼きついています。

 1999年7月1日の午後、「息をしなくなったよ。結香里が死んじゃったよ」・・・、
民子から、張りを無くしたような声で、結香里の最期を知らせてきました。

私の想いだけを綴った、つたない文章が、こんな素敵な絵本になりました。加えて、この絵本のモデルである『結香里(ゆかり)』の命日7月1日に発行されることになったのです。こんな嬉しいことはありません。ご協力いただいた皆さんに、先ず心から感謝申し上げます。





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