嫁というのは夫の家に嫁いできて、いろいろとまどうことも多かったわけですから、とんちんかんなこともしでかしたことでしょう。大口を開けて食うな、屁はするな、などと制約された上に、隣の嫁と較べられたりしたらたまりません。『嫁の挨拶』でおおらかにお返しをする西の嫁が、私は大好きです。もしかしたら賢いと言われている東の嫁より、もっと賢いのかもしれないと密かに思っています。
継母の話は、ここに載せた話以外にも『お月お星』とか『米福粟福』など聞いてきました。どの話も最後にしあわせになるのは、甘やかされた継母の連れ子ではなく、苦労した継子です。シンデレラをはじめ、世界中至る所に「継子話」がありますけれど、私が知る限り、どの話も最終的には継子がしあわせになります。それは子どもを育てるのに、かわいいかわいいだけで育てたのでは、大人になってしあわせになれないという教えです。子どもをまともに育てるには、冷たいようだけれど、いびることも大事、苦労させることも大事という先人からのメッセージではないでしょうか。ではつらい思いをさせれば、子は必ずしあわせになれるかというと、そうではありません。一方でつらい目に遭ったら、一方にだれか支えてくれる人がいないと、めげてしまうでしょう。シンデレラには死んだ実母の霊が支えになってくれます。『姥っ皮』では山姥が支えてくれます。おはなしによっては魔法使いという形で出てきたり、動物という形で出てくるものもありますが、人間が一人前に育つには、つらいことをする経験と同時に、しっかりとした心の支えも必要だということを、先人はちゃんと教えてくれているのです。 『姥っ皮』で、継子が洗濯をしてくると、「衿の汚れが落ちていない」と突き返され、衿を洗い直してくると「脇が汚れている」と突き返され、脇(みやつ口)を洗い直してくると「袖口が」「裾が」と突き返されます。継子はそのたびに洗い直します。「おはなし」ですから繰り返し形式になっていますが、つまり何度も突き返されることで、継子は「着物を洗濯するときには、衿、脇、袖口、裾は汚れがはげしい部分だから、特にていねいに洗わなければならない」ということを身につけていくのです。そしてそういうことをきちんと身につけていくことが、大人になってからのしあわせにつながっていくのです。 世界中どこでも、そして何時の時代でも、親はできれば子どもに苦労はさせたくないと思っているでしょう。ありがたいことに、今はそうしようと思えばできる時代です。けれど世の中全体が貧しくて、物資も少ないとなれば、好むと好まざるにかかわらず、苦労させることになってしまいます。そしてそれが子どもにとってよかったのかもしれません。また子育てが、親だけの担当ではなく、地域社会も大きくかかわっていた時代には、親の甘い(実母の)目だけでなく、まわりの大人の厳しい(継母の)目も子どもたちにしっかり注がれていたのです。それでバランスがとれていたのでしょう。世の中が豊かになり、地域社会とのつながりも薄く、子育て担当が親だけに、それも母親だけの肩にかかってきてから、おはなしの中でいう「継母の目」がなくなってしまいました。「実母」の目だけになってしまったのです。そうなると子どもはしあわせになれません。
山姥というのは昔話に出てくる妖怪ですが、それは女の、特に母親の心の一部を巨大化したものだと思っています。母親はおっぱいを飲ませたりおしめを取り替えたり、つまり「衣」と「食」の世話をしますが、それは山の獲物を与え反物を与える山姥に似ています。けれどそうやって子どもをかわいがり育てる一方、『三枚のお札』の山姥が小僧を縛りつけたように、我が子を自分の所有物のように思い、自分の手元にしばりつけようとする母親もたくさんいます。かわいがり方をまちがえて我が子を精神的に殺してしまう母親もいれば、実際自分の命を絶つときに我が子を巻き添えにしてしまう母親もいます。子どもを食い殺す山姥は、そういう母親の心のありようをカタチにしたものではないかと私は思っているのです。 山姥は子どもだけでなく、『食わず女房』のように、しょうもない夫を食い殺そうとします。この本には載せませんでしたが、『雪女』のように、約束を破った男を食い殺そうとする山姥もいます。けれどその反面、離婚したい女や追い出された女、結婚もしないうちに身持ちになった女など、ムラ社会におさまりきれない女を助けるのも山姥なのです。