こどもたちの夢を育てる 一声社
いっせいしゃ
ヨネやんのえらいこっちゃで〜

2009.12.24

ヨネやん、溝に落ちる―の巻 その3

ようやく前振りが終わりました。ふ〜っ。しかも、クリスマスイブには全く相応しくない話題をこれからします。苦情は寄せないでください。

溝に落ちる話は、アニメに関係があります。
溝とアニメ?
そうなんです。

最近のアニメがどんなものかあまり詳しくないのですが、私らが子どもの頃、アニメのお約束みたいなものがありました(スポ根ものではない)。

登場人物が何かを追っかけたり、本を読むのに熱中して歩いているときに、崖が出てきます。
なんで、いつもいつも崖が出てくるのかは不明なのですが、例えば私がそのアニメの主人公だとしましょう。
にっくき敵のドラ猫を見つけて、猛然と追いかけます。もう少しで捕まえられるという時に、崖になるわけです。でも、私は崖に全く気づいていないのです。
ドラ猫が猛然と崖から飛んで、崖の向こうにせり出している木の枝につかまっています。私は、すごい勢いで走ってきて、猫の手前で止まります。
「もう、捕まえたぞ。観念しろ!」とか言いながら、崖を通り過ぎて空中に浮いています。
そのとき、猫が下を指差します。
私は何事かと下を見て、空中に浮いていることを初めて知り、慌てて手足をバタつかせますが、哀れ、見事に落下します。

私はこの場面を何度も色んなアニメで見ていたので、すっかり信じ込んでいたのです。
「空中にいることが分かっていないと、空中に浮くことが出来る」と。

小学校の1年生のときです。
なんで、1年生やと分かるかというと、集団で下校していたからです。
朝は、小学校6年生の班長を先頭に集団登校。でも、帰りはそれぞれバラバラ。
1年生だけは、同じ方向に帰る子どもらが、連れ立って集団下校していたのです。
「ほな、ぼくはこっちやから、また明日な」とか言いながら、枝分かれして行くんです。
ともかく、クラスの皆と集団で下校している途中で、私が言いました。
「ぼくなあ、空中にうくことができるでぇ」
「うそやあ」
案の定、みんなは口々にいいます。
ふんっ! みんな知らんな。僕は空中に浮ける方法を知ってるんや。まあ、驚くなよ。
そんなことを内心思いながら、不敵な笑みを浮かべている小学1年生って、結構不気味なものがあるでしょう。

「まあ、見ててみいや」
と言うなり、僕は例の方法を始めました。
そうです。空中に浮いていることに気づかへんかったら、ええ訳ですから、あれをやるんです。
目ぇつぶって、歩く!

私が目をつぶって歩き始めますと、女の子らが口々に騒ぎ立てます。
「やめとき!」「危ないで」「こけるでぇ」

まあ、見とけっちゅうねん。今にすごいことが起きるから!
不敵な笑みを浮かべたおかしな少年は、目をつぶったまま歩き続けます。
どっかに崖がないかなぁ?
(崖がなくて、ほんまに良かったんです。)

そうこうするうちに、女の子らの騒ぎが大きくなります。
「危ないやん!」「どぶがあるで!」

どぶ? ええやんか! そこにあったか!
よっしゃ、よっしゃ!

そのまま目をつぶって歩いていくと、女の子の声が絶叫に変わったと同時に、体が沈みました。
続いて、前に倒れ、両手を突きました。そうです。どろどろのヘドロの中に・・・。
「えっ? なんで? 最後まで目ぇつむってたのに・・・」

浅い小さなどぶ(溝)やったから、よかったんです。
どぶのコンクリートで足をすりむいたのと、服の袖やら前やらがどろどろになったのと、靴がヘドロに埋まって脱げて探すのに苦労したのと、お母ちゃんにえらい剣幕で怒られて、こっぴどく叩かれたのとを除けば・・・。


どうか、良い子の皆さんは真似しないでください。車がほとんど走っていない時代です。
今そんなマネしたら、間違いなく車に轢かれてしまいます。

それにしても、どぶには縁がありますなあ。
小学1年生で身をもって(痛い目をして)、「人間は空中には浮かない」ことを知った少年。
「空中浮揚」などという全くばかばかしいたわ言に、大の大人が騙されるのが不思議でしょうがない大人に育っていました。

ただの偏屈、根性曲がり、皮肉屋かもしれませんが、生きて行くうえではそれも大切な知恵というものですな。


2009.12.23

ヨネやん、溝に落ちる―の巻 その2

この見出しは、おかしいやろ? 昨日のお話のどこに溝が出てきたんや?
というお怒りはごもっとも。
先を急いでおられる皆さん、溝に行き着くまでに、まだもう少しお話がございます。しばしお待ちを!

おいの受験勉強の邪魔をしている、ヨネやん。国語の都立高校過去問題に四苦八苦。
「これは、問題が悪い!」
と八つ当たりの、惨めな姿をさらしているところ・・・。

だいたい、「このときの主人公の気持ちは?」なんて、書いた本人でもないのに、入試を作ってる人が勝手に決めてええんかい?

重松清さんが、自分の文章が出ているテストを自分で解いてみたら30点しか取れなかった、という話を聞いたことがあります。
私らが中学生の頃は、こんな話でした。

「藤本義一が、自分の子どもが解いているテストを見てビックリ。
『それ、お父さんの書いた文やがな。どれ、貸してみ』。
自分の書いたものがテストに出て、それを自分の子どもが解いている、という構図に何やらくすぐったいような誇らしさを感じながら、次々に質問に答えていきます。
『出来たで!』
自信満々に子どもさんに解答用紙を渡した藤本義一さん。
タバコをふかしながら、子どもさんが答え合わせをしているのを待っています。
『お父さん』
『なんや?』
『これ、ほとんど間違うてるでぇ』
『なんやて?』
慌てて解答用紙を見たら、ほとんどの解答にお子さんが書いたバツ印が付いています。
『ほんな、アホな。そうかて、この出来事に作者が込めた思い、だの、主人公のの気持ち、だの、書いた本人が答えてるのに、何で間違うんや!』

これは都市伝説ではなく、ラジオで本人がしゃべっていたそうです。
それを聞いていた友人からじかに聞いたのですから、まあ、信憑性はあるでしょう。

重松清だの藤本義一だのに、自らを並べるところが不遜極まりないですが、過去問題の4択のどれも間違いやと思うものがあります。そんな問題ばかりではありませんが・・・。

しかし、そんなことを言うてても。入試に合格するわけではありません。
そこはうまく切り替えませんと・・・。
甥にも言うときました。

「あのなあ、とにかく入試に受からんとアカンから、問題を作った人の意図を見ぬかなアカン。そこを探るためにこんな問題集も売ってるんやから。まあ、ここはうまくやろ」

まあ、ただ単に私の国語力が足りない、というだけの話なのですが。

ちなみに、甥の勉強を見るようになったのは、連れ合いのほうがずっと早いのです。
中学に入って、すっかり勉強が分からなくなり、ふてくされてやる気もない甥を見かねて、根気強く丁寧に、英語・数学・理科などを教えていました。
傍から見ていても、最初甥っ子は、イスに浅く腰掛けてふんぞり返り、ポケットに手をつっ込んだりして、「勉強してやっているんだぞ」オーラを発していたのですが、回を重ねるごとにだんだんとイスに深く腰掛け、机で数字などを書くようになり、2年生の半ば頃には、質問もするようになり、入学当時のあの姿からは考えられないような別人です。
私が最初から教えていたら、あのふてぶてしい態度にきっとぷっつんしていたことでしょう。
連れ合いは、教えるのがうまく、なにより忍耐強い。

私も見習わんとあきまへんわ。

それで、溝は?
まだまだ道半ばです。


2009.12.22

ヨネやん、溝に落ちる―の巻

新しい歳を迎えようとしているときに、「落ちる」などと、特に受験生を抱える
ご家庭には縁起でもない話題で失礼します。

「受験生を抱えるご家庭」などと、他人事のように書きましたが、そうでした、
うちの甥も高校受験を控えております。
先日、連れ合いが都立高校の過去問題集を買うてきました。
「どれどれ、どんな問題や?」
と、二人して眺めてみると、・・・・・・。

「難しい!」

国語と英語は長文が多く、長い文章を読むのが苦手な子には、ほとんど点数が取れないのでは無いかと、不安になる問題。
実際の質問は4択とかが多いので、山勘でも当たるといえば当たるだろうが、それはそれで、「山勘で当たる問題なんか、学校で習た文法とか、関係ないやんか」
ということにもなります。

まあ、都立高校入試の問題に何事かを期待する方が無理というもの。
文句を言うててもしゃあないですから、国語の長文を甥と一緒に解いてみました。
長文は2種類出ています。まず、小説の一部。次に、論文の一部。
甥が、
「こっち(論文)は読みやすいけど、そっち(小説)は面白くない」
というのを、
「まあ、そんなこと言うなよ。入試の問題でおもろい文章が出てくるはずもないやろ。とにかく、解いてみ」
となだめ、彼は早速解答を考え始めます。

一通り終わったところで、解答集を見ながら、考えていきます。
「そんなに難しくないやろ」
と、私は高をくくって、
「その4択は、(イ)やろ」
とか、答えていましたのに、
「違うよ。答えでは(ウ)になってる!」

「・・・ウソやろ。なんでや?」

その後も、次から次に解答を間違え、すっかり権威をなくしたヨネやん。

もう一度、じっくり文章を読み直し、設問を読んで考え直します。
それでも、解答に納得がいきません。
解答集に書いてあった解説を読んでもさらに「そら、ちゃうやろ」と不満が増すばかり。
挙句の果ては、
「これは、問題が悪い。解答も間違うとう」
と、都教委の解答にもケチを付ける始末。
このころには、すっかり近所の文句言いのおっさん状態。受験勉強の手助けどころではありません。

ああ、おじさんの権威は回復するのでしょうか?
それよりも何よりも、年明け2月には私学の入試が迫っているのに、問題にケチをつけるようなおっさんが教えていて、彼は無事合格できるのでありましょうか?

乞うご期待!


2009.12.21

昔の記憶シリーズ―その4

4歳のとき。
これくらいになると、はっきりと覚えていますね。
4歳で一番印象的な出来事は、妹が生まれたことです。
出産直後に病院に行ったらしいのですが、それは覚えていません。
覚えているのは・・・・・。

赤ちゃんの妹をいつも母があやしていました。
寝ているときは、歌を歌いながら、やさしくトントンと布団を叩いたりしながら。
ある日のこと。
「ちょっとお使いに行ってくるから、赤ちゃんを見ててや」
と母から言われ、4歳の僕が1人で妹を見ていました。1つ上の兄貴がそのときどうしてたんか、母と一緒に行ったんか、別のところに行かされてたんか、全く覚
えていませんが、つまりは僕ひとりやった訳です。

僕は母があやしているところをじっと見ていましたから、見よう見まねで赤ちゃんの妹をあやしていたんです(あやす、なんて言葉も知りませんが)。

あれこれ話しかけながら、利き手の右手で、赤ちゃんをゆっくりと・・・・・。
 
揺さぶっていたのです!

母が「よし、よし」と軽く布団を叩いたりしているのを、4歳児の僕は揺さぶっていると思っていたのでしょう。
お使いから帰ってきて、アパートのドアを開けた母は、僕が妹をあやしているのを見るなり、鬼のような形相で走ってきて、僕をぶちました。

「死んでしまうやないの!」

そらそうでしょう、揺さぶっていた、というのも控えめな表現で、ほんまに芋虫のようにゴロゴロと転がしていたようなものでしたから。

あのときの母の鬼の形相と、すっとんで来た速さ、ぶたれた痛さ、妹の息の根を止めてしもたかもわからんという恐怖・・・、これは忘れようにも忘れられない出来事でした。

母は、妹の様子をしっかりと見て大丈夫なのを確認し、自分も落ち着いてから、こう言いました。
「ゴメンな。お母ちゃんがやってるのを見て、『よし・よし』してくれてたんやな。ありがとうな、ゴメンな」
と。

母のお使いが近所やってよかった。あれから半世紀近く経った今でも、そう思います。
妹の上と下に生まれてきた、僕の2人の弟が、どっちも赤ちゃんのときに死んでしもたから余計に。


2009.12.19

昔の記憶―その3

2〜3歳の頃、おじいさんから缶入りの飴をもろた後で、新しいアパートへ引っ越しました。アパートのすぐそばを、国道2号線が走っています。
ちょうど僕らが引っ越した直後に、東京オリンピックの聖火リレーがそこを通ったんです。そのときの写真も残っています。
写真に写っている人は、みんな一定の方向を見ています。ランナーが走ってくる方を見つめているのです。ちなみに、写真にはランナーも聖火も一切写ってはいません。
ただ、私の記憶というとこれが全く曖昧。道路に出て見てたような気がする、そんな程度です。ただ、「気がする」というのもあながち思い込みではなくて、国道に車が一切走っていなかったのです。今よりも格段に車が少ない時代とはいえ、国道ですからたえず車が通行していました。ところが、聖火リレーのときだけ、全くなにも走っていなかったのです。いつもと違う道路―それを、ぎょうさんの人と見たような見ないような・・・、そんな記憶です。

話は変わりますが、私らが子どもの頃、そうですね、小学校3〜4年生くらいまでは、大きな道路を馬車が通っていました。馬車といっても、客車ではなく、荷物を引く車です。
道路の端を、ゆっくりゆっくり、首を振りつつ、荷物を運んでいます。
荷車の後ろには、バケツ。
文字通り、馬のお尻近くにバケツ!

馬はゆっくり歩きながら、ときどき、ぼとっ! ぼとっ! と大きな落し物をしていきます。
すると、おじさん(おじいさん?)が後ろに回って、スコップのようなモノで馬糞をすくってバケツへ入れます。
まあ、おじさんもいつもいつもそれをやってられませんから、ときどきは落としたまま。

そんな国道2号線を、聖火リレーが駆け抜けていきました。
ただ、3歳の子どもには、ありがたくもなんともない、感動さえしない、そうい
う出来事でしたが・・・。


2009.12.16

一番古い記憶―その2(3歳の記憶)

2〜3歳の記憶は、ずばり! 扇雀飴とおじいさん、です。
これは、後で親から聞いた話ですが、近所に僕ら兄弟をすごく可愛がってくれていたおじいさんがいて、よく甘いものをくださったらしいのです。

扇雀飴というのは、僕らのほうでは結構ポピュラーな飴でした。これまた、後知恵(後知恵も後知恵、今調べて分かったのです)ですが、扇雀飴は1925年創業で、なんと僕らの地元に工場があるらしい(もっとも、僕らが子どもの頃は、大阪で作ってたみたいですわ)。

前置きがえろう長うなってしまいましたが、ご近所のおじいさんから大きな缶かん入りの飴をもろたんです。もろたときのこととか、当時の味は全然覚えてないんですけど、「おじいさんからもろた」という点と、「大きな丸い缶かんに一杯入っている飴」という2点だけを覚えているのです。

しかも、扇雀飴のマーク!
どうやら、雀らしいんですが、このマークと缶の色遣いがすごく印象的やったらしく、その後扇雀飴を見るたびに、「このマークと、この色遣いは・・・。そう
やそうや、●町に住んでた頃、おじいさんにもろたなぁ」という記憶が呼び起こされたものです。

でも、ようよう考えてみると、「おじいさん」というのは、今の私の年頃やったかもしれませんわ。あの時は、親も30歳前後ですからね。


2009.12.15

一番古い記憶

みなさんは、一番古い記憶(つまり、一番幼い時の記憶)は何歳くらいの、どんなことでしょうか?

うちの家の前に、三兄弟が住んでいて、一番下がまだ1歳のA君。
この前などは、おじいちゃんに手を引かれてうちの前を通り過ぎたと思ったら、
くるっと回転して私のほうを見たんです。
「んん? なんやろ?」
と思いながら「おーい! A君!」
と呼んでみると、ちょっとよちよち歩きながら私のほうに近づき、ばいばいのつもりなのでしょう、微妙に右手を振ってくれました。
Aちゃんを見ながら、一体何歳くらいからの記憶が残っているのかな、と思ったのです。

私の場合は、よくよく思い起こしても、3歳の記憶が微妙、4歳からならよく覚えていることもある、という感じです。
幼い頃の記憶は、後から母や父から聞いた話を、自分の記憶と勘違いしていることもありますから、そこらへんが微妙なんですが・・・。

2〜3歳の記憶ー
その記憶がなぜ3歳だと分かるのかというと、住んだいた場所なのです。
子どものときは、4回引越していますから、
「あの家で起こったことやから、あれは●歳頃」
と、なります。

あれは、・・・・・。
続きは明日のお楽しみ。


2009.12.10

三省堂書店成城店さんのおはなし会顛末記―その3

おはなし会終了後のお話。

おはなし会の会場は児童書コーナーの一角。当然、子どもの本を見に来ている子ども達もたくさんいるわけです。会場の一番前あたりに、おはなし会が始まる前からしゃがみこんで熱心に本を読んでいる子どもがいました。小学校3年生くらいの女の子です。
この子は、おはなし会が始まっても、みんなでワイワイやっていても、全くこっちを見ないで本を読み続けていたんです。
「ずいぶん熱心に読み込んでるなあ。よっぽど本が好きなんやなあ。せっかく本を読んでたのに、突然おはなし会を始めてしもてゴメンよ。
んん? でも、大丈夫そうや。こっちには全然気をとられんと、読み続けてるわ」
そんなことを思いながらプログラムを進め、最後の「キツネの折り紙プレゼント」の時に、お話を聞いてくれていた子もいない子もみんなにプレゼントして回ったんです。その子には、「はい! これ、プレゼント!」と声をかけて、読み込んでいる本の上にそっとキツネを落としました。
その時、初めて顔を上げたのです。
「あっ!」
と短い声を上げて、にっこりしました。
「かわいい笑顔やなあ」

おはなし会をお開きにして、参加してくださった方と少しお話をし、それも落ち着いた頃。
その女の子が近づいてきます。
「どないしたんかな?」
と思って、にっこり笑ってみていると、女の子はこう言いました。
「さっきは、おはなしを聞かないですみませんでした」

「そんなん気にせんでええよ。それより本を読んでたのに邪魔してゴメンね」
「いえ」
というような会話から、
「そやそや、さっきはな、こんな話をして、こんなもんを見せててん」
と、グッズをいろいろ見せて説明。
「へぇ〜、そうだったんですか」
と言いながら、またまたにっこりと笑顔。

もしかしたら、お母さんに
「プレゼントをもらったお礼と、聞かなかったお詫びをしてきなさい」と言われたもかもしれませんが、それにしても「ほんまに本が好きなんやなあ」と思わせる、笑顔のすてきな女の子でした。

「気にすることないで。ずっと本を読んでるとこに突然来て、勝手におはなし会をやって、読書の邪魔したんはこっちやから」
と思いつつ、「今度やるときは、ちょっとは見てなぁ」
と思うヨネやん。
その女の子との出会いが実は一番印象的だった、晩秋の成城。
これにて、本当のお開きでございます。


2009.12.09

三省堂書店成城店さんのおはなし会顛末記―その2

「そろそろ時間ですね、ちょっとグッズをおはなし会の場所まで持って行っときますわ」
と、はやる気持ちを抑えつつ、現場に急ぐヨネやん。

児童書コーナーの一角を片付け、床にマットを敷き、ソファも置いて、いよいよ会場の出来上がり。
「どんだけ来てくれるかな?」
かわいい子どもさんとお母さんのペアが3組、そうそうに参加してくれました。

「店長さん、今何時ですか?」(時計を持ってないんかい!)
「2時5分ですね」
「ほなら、もう始めましょか」

例の如く自己紹介ぱたぱたで、自己紹介。
「ほぉ〜!すごいねぇ」
の声に大満足。
小道具セット2の「いないいないばあ」で子どもの目を引き付け、のびる絵本『ほしい』を高く高く伸ばしながら、読み聞かせ。その後、小道具セット4のレストランを実演します。
「ほしたら、そこの君! この中で一番好きなものを選んで、おっちゃんには何を選んだか言わんと、お母さんにだけこっそり教えたって。選んだ? ほな、お母さん。みんなにも何を選んだか、教えたってください。僕は、向こう向いてますから」
男の子が選んだメニューをズバリ当てます。
「すごい!どうして?」
の声に益々図に乗るヨネやん。もう1人指名して、またまたずばり当てます。
この頃には、参加者の人数が増えてきました。新たに3〜4組は増えたでしょうか。

動物の家が入れ替わる不思議な家などを次々に実演した後、本日のメインとして全員参加の『おばけの森』。
「無事におばあちゃんの家に行けたら、さっきの「不思議な家・ミニチュア版」をプレゼントします!」
というと、子ども達の目がキラリ!

3回試みて、誰も最後までいけなかったのですが、一番と置くまでいけた子ども3人にプレゼントを渡し、最後は「折り紙キツネ」をプレゼントして、さようなら。

「おじさん、ありがとうございました」
「これは、どういう仕組みですか?」
などのお話をしながら、お開き。
店長さんにも大変喜んでいただき、
「初めて見ましたけど、やっぱり陳列しているのと見るのとでは全然違いますね。子ども達も集中して喜んでいましたよね」
のお褒めのお言葉を頂戴し、お忙しいのに喫茶店で2人のミニ打ち上げもしてお暇しました。

はぁ〜、無事に終わって何より。子どもにも喜んでもらえたし、それが一番!
成城の子ども達! また会おう! さらばじゃ!

 


2009.12.03

三省堂書店成城店さんのおはなし会顛末記―その1

11月28日土曜日、ついに運命の日がやってきました。
何の運命かよう分かりませんが、書店さんのお客さんを蹴散らす結果になる運命なんか、おはなしヨネやんが狂喜乱舞する運命なんか、はたまた「二度と来るな」という運命をたどるのか・・・仏のみぞ知る。

土曜日お昼頃の三省堂書店成城店さんの店内は、かなりの人出。親子連れなどで賑わっています。
お昼前に家を出て、お昼過ぎにお店に着いたので、「ちょっとお昼を食べてもよろしいですか?」と皆さんの忙しく立ち働いておられる事務所で、1人寂しくサンドイッチを食べるヨネやん。
そうやそうや、飲み物がないわ! 
店長さんに教えていただいた持ち帰り用のコーヒーショップへ。
余談ですが、東京都世田谷区の小田急成城学園前駅には、北口にマクドナルドとドトール、南口にはスターバックスと上島コーヒー、4件のショップが競合していました。まさに、成城コーヒー戦争ですわね。

店長さんは物凄くお忙しいところ、私なんぞの話し相手に。
「店長さん、高田都さんの文庫の帯でお名前を拝見しましたよ」
「大ファンです。三省堂書店本店のサイン会で行列に並んで、サインをいただきました。あの本通りのすてきな方ですよ」
「そうですか! 高田さんのご本は心があったかくなりますね。人を信じようという気になりますね。高田さんと私は同じ兵庫県の出身で・・・」
という話から、店長さんの神社仏閣、お城、古都好きのお話になり、私が奈良に住んでいた話をしていたところ、私の目の前のブックエンドに「姫路城」と銘打ったムックを発見!
「実は、ここが地元でして。中学生の頃は、お城の清掃というのがありましてねぇ。自由参加といいつつ、内申にひびくとかなんとか結局半ば強制で掃除に行きました。参加したら手ぬぐいをもらうんです」

すると、店長さんが「姫路城も行ったことがあるんです。平成の大改修のまえにもう一度いきたいですね。実は、書写山円教寺にも一度だけ行きましたよ」と。
姫路城に行かれた方はそこそこおられても、書写山まで足を伸ばされる方は中々おられません。ロープウェイで登るんですが、横っちょからよう歩いて登ったもんですわ。ラストサムライとかの撮影でも使うたんですけど、そんなことより何より、一度ぜひ行ってみてください。

店長さんの歴史好きは相当なもの。今年の流行語大賞にノミネートされた「歴女」というのがありましたが、店長さんはさしづめ「歴長(駅長ではなく)」さん。
物腰が柔らかく、お話も分かりやすく、もちろんお仕事に大変熱心な、実にすてきな店長さんです。

お忙しいのにお話をさせていただき、「きっと、リラックスしてもらおう、という心遣いに違いない」とそのご好意に甘えつつ、出番を待ちます。

まだ、始まらへんの?
すみません、次回にはおはなし会が始まるでしょう。

 


2009.1127

いよいよ明日は、三省堂書店成城店さんでのおはなし会。そのお話はまた次回として。

コーヒーのお話―その3

その1で、「ホット」という言葉を書きましたが、関西圏のある一定の年齢以上の方で、東京でコーヒーを注文したかたなら、一度は経験されたでしょう。
「ホット」が通じないことを・・・。

私もこちらに引っ越してからしばらくは、慣れませんでした。
喫茶店に入ってメニューを見、おもむろに注文します。
「ほなら、ホット1つ」
「なんのホットですか?」
「・・・・・・なんの?」

ホットといえば、ホットコーヒーですがな。ホット1つ、と言うて、「なんのホットですか?」と聞き返されたら、なんやらむっとしますな。
でもしゃあないですわね、考えたら何のホットを注文したんかわからんもんねえ。
ホットココアかもしれんし、ホットオレンジジュースかもしれんし、ホットウォーター(お湯)かも・・・。

そうは頭では分かっていても、いちいち「なんのホットですか?」と聞かれたら、あまり気分がようありませんでした。


もうひとつ、喫茶店で通じひんかった単語は・・・
「レーコ」
です。
アイスコーヒーですわね。
ホットはまだ、「何のホットですか」いうて聞かれるけど、「レーコ1つ」て注文したら、無言ですもんね、店員さんは。「外国の方ですか?」みたいな目で見はる人もおってやしね。
そやから、「レーコ」っちゅう言葉自体を、わたしも使わんようになってしまいました。
ホットは、未だに使うてしまいますけどね。

 


2009.1126

コーヒーの話―その2(続き)

ほとんど溶けない摩訶不思議なコーヒーに出会い、四苦八苦のヨネやん。

これであきらめるヨネやんではありません。再チャレンジです・
もう一度同じ手順でコーヒーの粉を入れ、今度はお湯を沸かしなおして、ゆっくりと何度もかき混ぜます。そうです。お湯の温度が低かったのかもしれませんし、混ぜ方が足りなかったのかもしれません。
「もう、ええやろ。このへんにしといたろ」
何度もかき回してすっかり溶けたであろうコーヒーを口元に運びます。
「苦労した後のコーヒーの味は、また格別・・・」
ゆっくり、ずずずずっ〜と飲み込みます。
「んっ? ちょっとざらついてるけど、今度は大丈夫か。それにしても薄いコーヒーやなあ」
続いて、少し勢いをつけて、かなり飲み込みます。すると・・・、
「うわぁ〜! またや!」
またまた慌てて流しへ。
「今度はうまいこと行ったと思ったのに・・・。1回目は、そうっと飲んだから、溶けへん粉が沈んでただけやんか! ほんま、ごう湧くのぉ(腹立つなあ)」

翌朝、学校の事務員さんにご報告です。
「変わったことはありませんでしたけど、棚の中のコーヒー、あれ、あきまへんわ。全然、溶けへんですよ」
「コーヒーが? 溶ける?」
「はい、お湯 注いでかき混ぜても、全然溶けへんから、口の中に粉が入ってきて、喉に張り付いて、えらい目にあいましたわ」
「・・・・それ、粉に湯ぅ入れて、かきまぜて、そのまま飲んだ?」
(おかしなことを聞く人やなぁ)「はい、そうですよ。そのまま飲んだか? って、まだ何かせな飲めへんコーヒーなんですか?」
いささか不審の受け答え。
「あれなあ、レギュラーコーヒーや。ドリップで飲むようになってんねん。やったことなかったか?」
「レギュラー? ドリップ? なんですのん、それ?」

レギュラーといえば野球の選手、ドリップやのうてトリップなら聞いたことある英単語、なんにも知らんヨネやんは、レギュラーコーヒーの淹れ方を実演してもらい、淹れたてのコーヒーを飲み、「うまい! これがコーヒーなんか! インスタントとは全然味が違う!」
感動、感動、また感動のヨネやん。

思えばこの日を境に、レギュラーコーヒーを飲むようになったのでした。もちろん、寮生活の中で飲めるわけもなかったのですが、道具一式を持っている先輩に飲ませてもろたりして・・・。そのうち、喫茶店でもえらそうに飲むように・・
・。

インスタントしか知らなかった、コーヒー通(つう ではなく、こーひーどおりですな)のヨネやんのお話、これにて一巻の終わり。

 


2009.1125

コーヒーの話―その2

その1では、最強と思われる、片手鍋取り置き・沸騰コーヒーのお話をしました。
ほなら、さぞやコーヒーには詳しいんでっしゃろな、と誤解を受けるかもしれませんが、全くそのようなことはありません。
レギュラーコーヒーなるものを初めて飲んだのは、大学に入ってからです。
家では、ずっとインスタントコーヒーやったんです。子どもの頃は、ホットミルクに入れたりして、飲んでいました。
インスタントしか飲んだことがない、レギュラーコーヒーをどうやって淹れるか、全く知らない田舎者のヨネやんが、おかした失敗。
今日は、そのおはなしです。

大学時代に、まあいろんなアルバイトをしましたが、「宿直」というものもありました。学校や幼稚園に泊り込むわけです。
ある日のこと、寒いのとのどが渇いたのとで、何か飲むものは無いかと棚を探しておりました。
お断りしておきますが、無断で飲もうとかとういう危ない話ではなく、「棚にあるもの、なんでも自由に飲んでや」と言われていたのです。
棚の円柱型の缶に、「コーヒー」とミミズが這ったような字で書いた紙が貼ってあります。
「なんや、コーヒーあるやん! おお、クリープもあるで」
缶を取り出し、流し台の上の戸棚から湯飲みを持ってき、湯飲みの中に缶の中のコーヒーをトン・トン・トンと軽く叩きながら入れます。
余談ですが、インスタントコーヒーを飲みなれた私がコーヒーの粉をカップに、トントントンと軽く自分の手を叩きながら入れるこの仕草を見て、「ヨネちゃん、手つきがええなあ」と感嘆の声を上げた友人がいました。
横道にそれてばっかりですが、とにかく、缶の中の粉をカップにいれ、熱湯を注ぎ、ついでにクリープも入れて、スプーンでかき混ぜます。
「おお、出来た出来た!」
さっそくカップを口元に持って行き、ズズズズゥ〜っと飲み込むヨネやん。
ごくっと飲み込んだその瞬間です!
「うえぇ〜! なんやこれ? 粉が溶けへん! のどに粉が張り付いた!」
慌てて、流しに行き、うがいをして喉にからむ粉を吐き出します。
「なんや、このコーヒーは! 溶けにくいなあ」

さあ、この後どうなる?
続きは、また明日


2009.1124

素適な出会い

先月、名古屋の書店さんを訪問した際、素適な書店員さんと出会いました。
丸善名古屋栄店の人文書(保育書・教育書・福祉書など)のご担当・Nさんです。
自閉症の問題を真剣に考えておられ、それほど大きくない人文書の棚に、特設コーナーを設けておられました。長く続けられた「発達障害支援フェア」期間には、
お手製のニュースまで発行されていたとか。
「僕が自分のことを説明できるようになるまでに12年かかりました」
と語っている12歳の自閉症っ子・H君のことを、「そういうことが言えるって、すごいですよね」と語ってくださいました。
今書店さんの現場は本当に大変です。新刊点数が多く、棚の入れ替えや返品の作業などに忙殺され、しかもこの不況で売れ行きは厳しい。
Nさんは、ただでさえ忙しい業務をこなしながら、ご自分が「これだ!」と思う棚作り・フェアに取り組んでおられました。
「通常業務をしっかりこなして信頼を得ないと、自分の好きなようには出来ません」
そうおっしゃるNさんのお忙しいお時間を、さらに私のとの会話で奪ってしまったのですが、自分の本が並ぶかどうかということを超えて、本当に素適な出会いだったなと、後でもつくづく感じた次第です。


2009.11.21

コーヒーの話―その1続き

奈良県田原本町・24号線沿いのとある食堂にて。

おばちゃんにホットを注文し、カウンターに置いてあった新聞を読み始めました。

新聞に目を落としながらも、おばちゃんがどうやってコーヒーを淹れるんか、興味津々。ちらちらと、カウンターの向こう側のおばちゃんに目を走らせます。

他の客さんのランチを作り終えたおばちゃんは、流しの向こう側に置いてあった片手鍋をガスコンロに置き、点火しました。
あのお客さんにランチ出してたけど、ランチにはまだなんかつくんか、結構豪勢やなあ。
と思いながら、また新聞に目を落とし、再び目を上げたとき、片手鍋の中のものが沸騰してきて、鍋がシュンシュンと音を立てています。
おばちゃんは、冷蔵庫を開けたり、荒いものをしたりしています。
・・・おばちゃん、沸騰してるでぇ。それに、僕のコーヒーはどうないなってんの? なんぼ時間があるいうても、はよしてほしいなあ・・・
と思い眉間にしわが寄ったそのとき!

おばちゃんは、コーヒーカップを取り出してコンロの横に置き、沸騰した鍋を火からおろし・・・・・・、
えっ、まさか!
そうなんです。そのまさかだったのです!
コンロの向こう側に放置されていた片手鍋。その中に入っていたのが、コーヒー!
 しかも、沸騰させて、熱湯コーヒーとして・・・

「はい! おまっとうさん!」

カウンターにコーヒーカップが置かれます。
・・・香りも何もせん。味も、気のせいか、味噌汁のような隠し味が・・・。ようするに、ただの黒いお湯やがな・・・。
しかも、これで安かったら文句もいわんけど、このお値段で?
哀しい、悲しい、辛いですなあ。

心の声を胸にしまい、舌が火傷しそうな熱々のコーヒーを無事に飲み干す、哀れな私。
コーヒーを飲むんは、まさにほっとしたひとときを過ごしたいからなんです。
このコーヒー(?)は、ほっともホット、熱いだけの黒いお湯ですがなぁ。
しかも、片手鍋に入れたままのコーヒーを、沸騰させる現場を目撃させんといてほしいわぁ。
何も知らんかったら、「このコーヒーやけに香りもないし、味もせんなあ」くらいで済んだかもしれんのに・・・。
いや、舞台裏を堂々と見せてくれるんやから、おばちゃんはええ人に違いない。
きっと、そうや!

出したお金ももったいなく、気持ちを静めるあの日のわたし。

今まで飲んだ中で、最強の部類に入る「コーヒー」でした。


2009.11.20

コーヒーの話―その1

山辺の道あたりに思いを馳せていましたら、コーヒーにまつわる出来事を思い出し、続いて記憶がつながり、別の話も色々思い出しました。

奈良県田原本の とある最強のコーヒー

別に山辺の道から近いわけではありませんが、記憶が呼び起こされたのです。
奈良市から南へ伸びる国道24号線沿いに、田原本町というところありけり。

学生時代にたまたま見たテレビ―陸上競技か何かの全国中学校大会でした―に、田原本の生徒さんが出場していたのです。
アナウンサーがコースに並ぶ生徒の、ゼッケン番号・自治体名・姓名を順番に読み上げていったとき、「ゼッケン●番、奈良県タワラホンチョウ、●●」と読み上げました。本当は、「たわらもと」町です。

さて、車を運転して24号線を南下し、確か橿原市の八木辺りに行ったときではないかと思うのですが、途中でのどが渇き、時間の余裕もあったので、「どっか、 喫茶店でもないかいなぁ?」と探していたところ、田原本に入ってしばらくした辺りで、1軒のレストランのような、喫茶店のような建物を発見!
反対車線にあったため、右ウインカーを出し店の前の駐車場に駐車。ガランガランと大きな音のするドアを開けて、店内へ。話は変わりますが、牛の首にでも付いていそうなこのベル。昔はお店のドアでしょっちゅう見かけたものです。
最近は、というべきか、東京ではというべきか、ほとんど見かけませんね。あの、ガラン・ガラン という音がすると、喫茶店兼食堂に入った気がするんですけどね。
とにかく、そのお店に入った途端、「少なくとも喫茶店とは、ちゃうなあ」と察しました。まあ、国道沿いのお店ですから、ドライバーにお昼とかを提供するお店なんでしょう。それでも、結構オシャレな名前のお店でしたで。
狭いカウンターに、テーブルがそれでも6つくらいはあったでしょうか、カウンターの奥にはおばちゃんが1人。
1人やし、カウンターに座ろか、とカウンターのイスに腰掛けます。

「お腹はすいてないけど、ここコーヒーはあるんかいな?」
ちょっと疑問に思って、小さなメニューを見ると、「ホット」と書いてあります。
それも、決して安くないお値段で。

「・・・ホットがあるんか。でも、このおばちゃんはコーヒーを淹れる、っちゅう雰囲気やないけどなあ。オシャレなエプロンやのうて、これぞ前掛け、ちゅうもん付けてるし。味噌汁を入れるんやったらわかるけど、まあええか。いまさら店 出られへんし・・・」

「おばちゃん! ホット!」

「はーい。ちょっと待ってやぁ」

(続く)


2009.11.18

邪馬台国?

奈良県桜井市の纒向遺跡から「卑弥呼の宮殿か!」という大型建物跡が出てきました。
最寄の駅は「巻向」。いやあ、懐かしいですねえ。
このあたりは、山辺の道を歩いたときに、よく使いました。

山辺の道は、私らが歩いたとき、天理駅から石之上神宮を通って、柳本の長岳寺、崇神陵・景行陵〜檜原神社・玄賓庵〜大神神社、三輪駅あたりまで、こんなコースでした。健脚というわけではないので、道からそれて箸墓古墳によることもなく、ぼちぼちと歩いていましたね。

あのすっかり寂れた巻向の駅が、にわかに東京の新宿駅みたいに賑やかになって
いることでしょう。でも私が個人的に感じる山辺の道の魅力は、「のどかさ」にあります。今はどうか知りませんが、私らが学生時代、ここらあたりをハイキングしている頃は、休日でもあまり人に行きかわず、道のあちらこちらに果物や野菜の無人スタンドがあり、本当に心やすらぐ、のどかな場所でした。(天理駅前と、三輪駅前は除いて)

奈良市内も、今や「奈良町」といわれ観光コースにもなっているあたりなど、地元の人間以外ほとんど誰も見ることがなく、私らがそこへ行くのは、庚申さんに お参りに行くときか、なんとなくぶらぶら歩いているときか、友人の下宿へ行く ときか、くらい。同じ古都とはいえ、京都とは全く違う、田舎のひなびた雰囲気がたまらなく好きだったのです。もっとも、住んでいるうちからどんどんハイカラになってきましたが・・・。

当時は、まだまだ冬は寒く、春・秋といえども朝は冷え込む盆地でした。
なんせ、寮の水道は冬、凍ってましたし、寮の前の道路も凍結してました。
近鉄奈良駅から電車に乗りますと、地下から地上に出たあたりが平城宮址です。
早朝の電車に乗ると、暗い地下から朝日がまぶしい地上に出たとき、平城宮址に冷気が沈み、白いもやがあたり一面を覆っているのです。まるで、雲の上を電車が滑って行くようで、それはそれは何度体験しても心揺さぶられる、美しい光景でした。わたしは早朝のそんな光景が大好きで、他では飛火野や浮き御堂によく行きましたね。やっぱり冷気が沈んで、そんな幻想的な風景に出会うことがあります。夜明けくらいにそんなあたりをうろついていたら、いまだと不審者として通報されるかもしれません、
もっとも今は地球温暖化で、そうした光景もあまり見ることができないかもしれません。


2009.11.16

パン焼き器で火傷をする―その2

焼きたてのパンを、パン焼き器から取り出そうとするヨネやん。
いつものように、お釜を逆さにして、ちょっと揺すって・・・。

そのときです。
お釜を持つ手袋が滑って、熱い熱いお釜が、こちらに倒れてきます。
あ〜、あ〜!
と思う間もなく、熱いお釜が半袖を着ていた私の左腕に、ピタッツ!

熱っ!
一瞬の出来事でした。
すぐに流水で冷やして、馬の油を塗って、と応急処置をしました。
その後数日、ガーゼを当てて、包帯を巻き、馬油を塗る―という処置をくり返すうち、痛みはそれほど感じなくなりました。

やれやれ、結構大きな水ぶくれは出来たけど、このまま治るんちゃうかな?

そういう甘い期待を持った頃、災害は忘れた頃にやってくる・・・。

水ぶくれが破けたとき、それからが大変でした。
無理に破いたわけでもなく、自然に破れたところからばい菌が入り、その夜、あまりの痛さに目が覚めました。

こら、かなり痛い。我慢が足りんのとちごて、ほんまに痛い!

それから、眠れぬ夜を過ごし、朝になってから早速病院へ。

抗生物質を塗ってもらい、薬をもらって、治療。
医者からは「もっと早く来たほうがいいですよ」と忠告され、「いやあ、民間療法でこのまま治ると思たんですけどね」。「いえいえ、早く受診した方が治りも早いですしね」。

それから5ヶ月近く、未だに私の左腕にはくっきりと火傷の跡が・・・。
こんな火傷は、子どもの頃石油ストーブに手をくっつけてしもて以来ですな。

我慢して重症化・・・、最近の福祉切捨てと不況で、そのような方がかなり増えています。我慢も限界でっせ。


2009.11.14

火傷をしました。

古い話で申し訳ございませんが、夏前に結構ひどい火傷を・・・。
なんで火傷したかといいますと、パン焼き器です。
「パン焼き器で、どないして?」
よくぞ聞いてくださいました。聞くも涙語るも涙の物語、しばしお付き合いを。

妹の家に夫婦で泊まらせてもろたとき、朝は焼きたてのパンを出してくれたんです。これが美味しいの何の。
早速家に帰ってから、連れ合いが色々調べて、買いに行きました。
わたしも焼くようになったんですが、ずいぶんと慣れたころに事件は起きました。

その日は、家の中に1人。
「パンでも、焼こかいな」
と、未だに食パン1種類しか焼けない、進歩の無い腕を呪いつつ、焼き始めました。
7時間後、ピロロロ〜ピピピピ と焼き上がった音が。
余談ですが、この電子音。何がナンやら分けが分かりまへん。
電子レンジに、炊飯器、グリル、電気鍋、パン焼き器、キッチンタイマーに、目覚ましまで(そのほかにも色々)。
音がするたびに、「え〜っと、どれが鳴ってるんやぁ?」と、うろうろ。便利な要で不便なもんです。

さて、焼きあがったパンを取り出しに台所へ。手袋をはめて、お釜を取り出し、逆さにして、ちょっと揺する。そうすると、焼きたてのパンが・・・。

そこで、とんでもない事件が!!!
(続く)



2009.11.13

近頃都に流行るもの オリンピック招致 無駄遣い 責任転嫁 開き直り 再チャレンジ

え〜、この話題は、あまりに腹立たしく、笑い話にも出来ず楽しくないので触れたくはなかったのですが、都知事の「再度立候補」発言を聞くに及び・・・・・・。

招致のために、都民の税金を200億円(招致費用150億円以外に、隠された費用が山のようにあるらしい)も注ぎ込んで、大騒ぎの挙句に、無残に敗れ去り、「JOCが悪い。政治力が働いた」などといつもの責任転嫁。「150億なんて、痛くも痒くもない」と開き直り。

商店街にはためいていた「オリンピックを東京へ」というフラッグは、乏しい商店街振興予算から出させたようです。イベントに呼んだタレントやスポーツ選手の出演料だけで、2億4000万円とか。
一方、保育園がどこも一杯で「働かないと生活できない。でも、子どもを預けられない」と苦しんでいるご家族に、どれだけのお金を使ったのでしょう? 「東京は、保育園を作ろうにも、土地の値段が高すぎる。今ある保育園にもっと詰め込んで、待機児解消だ」という物凄く安易な方向が、政府から出ています。今でも危ないのに、ぎゅうぎゅうに詰め込んで、窒息死とか事故が起こったときの責任を誰が取ってくれるんでしょう?

お金が無い? ここにあったやんか。オリンピック招致に使った費用を保育園作りに使えば、何箇所出来たでしょう? 何人のお母さん・お父さんや子ども達が救われましたか? 

今、何かといえば「財源が無い」のオンパレード。日夜そう言われているので、「ないんやったら、しゃあない」と思わされますが、騙されてはいけません。オリンピックに使うお金があるんです。「ムダだ」とマスコミが報道しないところにこそ、巨大なムダが隠れてますな。オリンピックが好きか嫌いか、ではなく、要はお金を何に使うんか、ちゅうことですわね。

「毎月家計は赤字。火の車やけど、みんながどんだけ不自由しても、お父ちゃんのパチンコ代だけは、確保しまっせ! ストレス解消やもんなぁ」と、なんのか、「子どもらも文房具や服が古うても我慢してんのに、競馬や!競艇や!いや競輪や!なんてもってのほかや。何が、勝負勘を磨いて仕事に活かすや! タバコ税も上がるらしいから、禁煙もしてや! お父ちゃんの健康のためだす!」と、なんのか。

ぜひ、都知事のポケットマネーで招致運動して欲しいもんですな。
それで、「財産を注ぎ込んで負けたけど、痛くも痒くもない!」とおっしゃられたら、心から拍手を送ります。人の金を使うて、そら、痛くも痒くもないでっしゃろ。
これで、ほんまに再度招致なんちゅうことになったら、ほんまに都議会なんちゅうもんも不要ですな。議員に払う金さえ、もったいない。まあ、都民がしっかり監視しとかんとあきまへんわ。



2009.11.12

長らくお休みをしてしまいました。インフルエンザだったわけではありません。
インフルエンザといえば・・・・。
ワクチンが1回だの2回だの、誰が優先だ、不足しているからくじ引きだ、とどうも何やら騒ぎすぎでうさん臭い。
妊婦さんや、子どもを持つ親御さんは、「罹ったらどうしよう」とご心配でしょう。でも、副作用も心配です。「不足している」なんてことで、薬価が急騰! 
見たいなことにならないのでしょうか? そのうち、闇で取引されたり・・・。
ドイツでは、政府高官だけは国民向けと違う、「より安全」と思われるワクチンを打って大騒ぎになり、メルケルさんが「わたしは、国民向けのものを打つ」と言いました。
どうも、国際的な薬大企業がからんでいそうで、うさんくさい話です。怖いのは、あまり騒ぎすぎてパニックになること、陰でぼろ儲けする連中の手に乗ってしまうこと、でしょうか。
鳥インフルだ、豚だ、新型だと、どうしてこうも毎年病気が話題になるのでしょう。誰かの筋書きか、人間そのものが弱くなっているのか・・・。
どちらにしろ、いくら新薬を開発しても、これではイタチごっこ。う〜ん、何か良い手はないものか・・・。


2009.10.18

フランさん&藤田浩子さんとお食事

小さな私達夫婦と、大柄のお二人の凸凹お食事会。
フランさんの息子さん・娘さん、お孫さん、ご自宅のお写真などを拝見しながら(藤田さんご自慢のお孫さんも)、英語が全く出来ない私達の話を藤田さんが決して流暢とはいえない英語に訳されつつ、食べつつ、フランさんの語りを聞きつつ・・・。楽しいひとときでした。
フランさんの新しい語りをその場で聞かせていただき、
「ヨネさんに関西弁でやっていただきましょう。どうぞ!」
と、藤田さんに突然ご指名をいただき、ご本人を前にして、しかも他のお客さんがおられるのもものともせず、
「今聞いて、さあ、いまからどうぞ、なんてそんな殺生な・・・」
と思う暇も無く、ええ加減な語りを披露。
はあ、ようやく終わった、と汗を拭き拭きフランさんを眺めれば、これまた意外なことに大笑い。
きっと珍しい動物でも見たようなご気分だったのでしょう。
赤面の至りのお食事会、これにてお開き。めでたしめでたし。


2009.10.16

高橋エミさんのステージ

先日、奥さんと二人で高橋エミさんのコンサートに行ってきました。
今井正監督の名作『キクとイサム』のキク役として当時子どもだったエミさんが出演しています。
「今年は、『キクとイサム』50年なんだって〜」
と、当日エミさんもおっしゃっていましたが、半世紀も前だったのですね。
日本に駐留したアメリカ黒人兵との間に出来た子どもが、差別や偏見の中で生きて行く作品です。
コンサートはとてもパワフルで、アットホーム。
「女らしい歌も歌いたいのよ」
とおっしゃって、そういう歌もたくさん歌われましたが、やはり「無法松の一生」
や「関東ながれ唄」など力強い歌のときは、ひときわ大きな拍手が・・・。
東京都北区が地元のエミさん。北区の小・中学校を出られたとの事で、町の人たちと支え合って生きてこられた(様々なことがあったのでしょうが)、そういう人生と歴史と街が見えるコンサートでした。


2009.10.15

自転車ひじ3―寒さが骨身に沁みるの巻

やせっぽちで人一倍寒さに弱いヨネやん。
もうちょっと肉があったらなあ、と嘆いていた、とある冬の日。
あれは、20代半ばくらいですね。たまたま太り気味の後輩と、コタツに入って話をしていたときです。

「ちょっと、ちょっと、ヨネさん。なんぼ冬やいうても、着込みすぎですよぉ。
寒うて、縮こまってるから、背中丸まって、見た目情けないしぃ」
「はぁ? このスリムな、鍛え上げられた体を見てみぃ。無駄な脂肪が何一つ無いやろ。それでなあ、寒さが直接、骨に沁みてくるねん! 寒い、寒い。もっと、着込まんと!」
「やりすぎですわぁ。返って、抵抗力が無うなって、風邪ひきやすいですよ」
「君みたいな、寒さ対策の脂肪をぎょうさんつけたヤツにはなあ、わからんねん。
君はええがな。服の代わりに、脂肪の肌襦袢を着込んでんねんから・・」
「ヨネさん! ちょっといいですか?」
「なんや、なんや、気にさわったんかいな」
「いえ、そういうことではなく、事実認識が間違うてますわ」
「どこが?」
「あのねぇ、ぼくらみたいなデブは寒く無いと思うてるでしょう。いえ、確かに、そういう面はあります。ヨネさんにくらべたら、寒さに強いでしょう。でも、暑さには弱い。
それに、それにですよ、ここが大事です!
この着ぐるみみたいな脂肪がいったん冷えてみなはれ、どうなると思います?」
「いやあ、わからんなあ。脂肪ないしなぁ。経験ないからなぁ、どないなんの?」
「冷えた脂肪は、アイスノンを体に巻きつけているようなモンです! どんだけ寒いか!」
「ほんまか! 冷えたアイスノンを体に巻いてたら、そら寒い! 
人生で初めて知ったわ! ありがとう! 間違うてたわ。ほんま、すまんこっちゃ」
「わかってくれたらそれでええんです。人の役に立つのは、気持ちがええモンですねぇ・・・・・・」

太っていた後輩の言葉に、目からウロコのヨネやん。それ以来20年、この知識を信じて疑いません。しかし、果たして医学的に本当に正しいことなのかどうか、それは定かではありません。悪しからず。

それで、妹さんの自転車肘の話は?

またの機会に。


2009.10.7

自転車ひじ・・・第2話

自転車を駐輪場に止めるだけで、「自転車ひじ」を患い、苦しんでいる哀れなヨネやん。
どんだけ弱っちいねん! と怒られそうですが、さらに哀れな人を思い出しました。わが妹です・・・。

妹は4年位前まで、宮城県に住んでいました。瀬戸内生まれの妹が、秋田から始まって、東北地方を巡回していたのです。転勤族の旦那さんにくっついてね。
日本海側にくらべたら雪は少ないのでしょうが、それでも瀬戸内では考えられないくらいの雪が積もります。しかも、考えられないくらい寒かったらしい。

ある日、妹から電話がありました。
「お兄ちゃん! 大変や!」
「なんやなんや、どないしたん? なまはげでも出たんか?」
「それは、秋田やっちゅうねん。ちゃうがな、温度や、温度!」
「温度? 熱でも出たんか?」
「熱はなぁ、ちょっと待ってやぁ、・・・36度5分。うん、平熱や。ちゃうやろ!
 部屋の温度がなあ、今何度やと思う?」
「そやなあ、そっちは寒そやから、10度くらいか?」
「はあぁああああ? 10度? それはなぁ、あったかい、あったかい。Tシャツで過ごせるわ」
「10度があったかい? こっちの部屋の温度は・・・、20度くらいあるで」
「そんなん、真夏や。常夏の島・ハワイやんか。一年中泳げるわ」
「いやいや、何ぼハワイでも、部屋の中では泳えんやろ」
「それがなぁ、室内プールやねん!」
「そう、来たか!」
「いつまで、続けんの? こっちの部屋の温度の話や! 今なぁ、なんと! みんながおる部屋の温度は・・・・・、発表します! 2度です!」
「2度! 2℃!  ・・・言葉、失うがな。ニド言うたら、あれやろ、クリープみたいなヤツやろ?」
「あははははは、そっちかい! わたしは、スジャータもええなあ」
「スジャータ、スジャータ、スジャータが・・・」
「2度を お知らせします!」
「ええ、突っ込みや! 立派に育ったなあ。もう、君には何も教えることは無い!」
「何も教えてもろてないで」
「それはそうと、部屋の中が2度やって、すごいなあ」
「そんなん、序の口や。お風呂のタイルなんか、朝凍ってんで」
「ものすごい世界やなあぁ。・・・」

人一倍寒がりの私は、話を聞くだけで悪寒が走ります。
肉が少ないよって、寒さが身に沁みる! 東北では、冬を越せんやろなあ。

それで、自転車ひじの話は、どないなったんですかいなぁ?

まあまあ、そう慌てなさんな。
寒さが骨身に沁みる話が出たついでに、そっちの話題をもう1つ。
(続く)


2009.10.5

肘が痛い。

最近、右ひじが痛みます。
よくよく考えると、どうもあれが原因です。
あれって?
自転車です。
なんで自転車で?
自転車を家の置き場に入れるときに、結構高い段差があるんです。
まず前輪を上げて乗り越えさせ、それからサドルを持って後輪を上げ・・・、これを毎日やってまっさかい。
いわゆる「自転車ひじ」ですな。

雨のときとか、寝てるときにも痛んだりします。
まるで、スポーツ選手みたいですが、単なる肘の過労、もしくは加老でしょう。
こんなとこにも老いが忍び寄っとんですわ。
ほんまにえらいことです。


2009.10.4

県民性って・・・。

1日にたまたま「ケンミンショー」を観てしまいました、初めて。短い時間しか観ていませんが・・・。
県民性って、わたしらには、よう分かりませんね。
なんせ、私の出身県は、昔の国で言うと5つの国から出来ています。
人の行き来が激しくなって、何と言ってもテレビの普及でかなり均一になってきたとはいえ、私らが子どもの頃はまだまだ同じ県や言うても違いがありました。「○県」と1つにくくれませんね。
それでも、「まだこんだけの独自性があるんやな」と、番組を観て思いました。
それぞれの気候・風土に応じた生き方、それが独自性やと思います。
もともと均一にしたらアカンのですわね。なんぼ狭い日本や言うてもね。

そう考えますと、道州制なんちゅうもんは、えげつないですわ。
国民の中から出た願いやないですしね。
平成の大合併騒ぎで、地方自治体はますます住民から遠い存在になってしもた。
地方自治もへったくれもありまへん。大きければいい、みたいな乱暴な理屈がなんで通ったんかいなぁ。
これで、道州制になってみなはれ、「州」なんちゅうもんは、雲の上の存在になりまっせ。
何をやってんのかようわからんとこになって、何もせん議員やら首長やらが、いろんなモンをぽっぽにいれまっせ。
大企業にとったら、市町村や県ごとに違う規制があってややこしい。
日本全国が4つくらい分けられたら操業も営業もやりやすい、ちゅうことでしょうが、国民にとってどんなメリットがあるんでっしゃろ?
そうか、日本を州にしておいて、そのままアメリカと合併するんかいなあ!
これぞほんまの、平成の大合併やね。
つるかめつるかめ。


2009.10.3

『白旗の少女』をテレビで観ました。
まずは、この番組を放映してくださったスタッフの皆さんに、心から感謝したいと思います。
わずか6歳の子どもが、あの地獄を生き抜く・・・テレビでは到底放映できないような現実がそこにはあったはずです。

沖縄戦は軍隊の本質をくっきりと現していると思うのです。
「軍隊を持たないで、どうやって国民を守るのか」
という方もおられます。でも、
「軍隊が国民を守ったことがあるのだろうか?」
と思うのです。
沖縄でなぜ多くの県民が死んだのか。女学生や男子中学生を戦争に駆り出したのはなぜか? 
満州で、ソ連との交戦が始まったときに、関東軍は開拓民を守ったのか? 
戦前は、労働争議や小作争議に、しょっちゅう軍隊が出動しました。米騒動でも。
誰から、誰を、守っているのだろう。

そんなことを考えながら、番組を観ていました。子役の子が熱演していて、感情移入してしまいました。
ぜひ、講談社青い鳥文庫の『白旗の少女』も読んでみてください。


2009.10.2

子どもの本まつりinとうきょう その3

上野公園2日目に、小学校高学年とおぼしき少女2人組がやってきました。もちろん初対面です。

本が大好きみたいなのです。あちこちの出版社の目録を袋いっぱいに集めています。
おはなしの小道具セットを興味深く見ていたので、「おはなしの小道具セット4」の「手品レストラン」をやってみせると、びっくり!
「なんで?どうして?」
びっくりしたことに大満足したヨネやんは、次々にやってみせます。
(「・・・ふふふふ。どうだ!」)
と、心の中で言うてます。
少女2人は、
「なんていう出版社? 一声社? 聞いたことない。本屋さんでも見たことない。
こんなのあるんだ!」
「でも、お金が無いから買えないよ。もう、欲しい物を買っちゃったから。
目録をもっと集めてから、また来るからもう1回見せてね」
と、走り去っていきました。

しばらくするとまたやってきて、
「あれ、あの手品、もう1回見せて!」
やってあげると、
「すごい!」。
と、またまた驚いたのまでは良かったのですが、続いてこんなことを言います。
「ねえねえ。おじさんってさあ、知事に似てない?」

・・・そうです。読者の皆様もお気づきだと思います。「知事」とは、都知事で
はありません。例の宮崎県知事です。
なんで、似ているかって?
少女2人の目が、私のおでこに注がれていたのは、言うまでもありません。

その後狭いブースに陣取って、何度もやってみせろ、と言うものですから、
「あのなあ。おっちゃんはこれを売って食うてんねん。君ら、買う気がないんやったら、そろそろそこ空けてんか」
というと、気も悪くせず、
「もうちょっとお金を持ってきたらよかったなあ。おっちゃん、イッセイシャだったよねぇ。
また、本屋さんで探してみる!」
「おおきにありがとう! ぎょうさん、本読みや」

子どもたちが好きなだけ本を読めるような世の中になって欲しいものです。



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